google-site-verification: google0f9f4f832944c3e4.html
人は晩年が大事である。若いときに欠点はあっても、晩年がよければその人の価値は上がってくるものである。古人の詩にも「天意夕陽を重んじ、人間晩晴を貴ぶ」の句がある。日中どんな快晴でも夕方に雨がふれば、その日の一日中が雨でもふったように感じられるのと同じで、人間の晩年が晴れやかなものでないと、つまらない人間になってしまうものだという意味であろう。
中国はさすがに大陸だから物が大きく、どんよりとしている。昔から「大功無名」という語があるくらいで表面に立ってはなばなしく活動するよりも、隠然と陰で動き、大功を立てようとする傾向がある。
これに反して日本は絶海の島国だから、気風が清浄で人の気質も一直線で、とにかく名乗りをあげて表面に立ちはなばなしく奮闘することを好み、陰の仕事はしたくないという短所がある。
「才子は才を恃み、愚は愚を守る。青年の才子は愚に如かず。請う看よ他年成学の後、才子も才ならず」という詩があるが、人間が愚を守るということははなはだ難しいものである。真に安心立命の境地に到達した人でなければとてもできないことである。
徳と仁とはその根底を人の心情におくものだが、それが直ちに行為となって外面に現れるものだ。だから完全な人物になろうと思ったら、道に志すと同時に、徳と仁を踏まなければならない。しかし、これだけでは人間が堅すぎて窮屈になってしまうから、六芸(りくげい)(礼(礼法)・楽(音楽)・射(弓射)・御(馬術)・書(書法)・数(算術)で多少の余裕を身につける必要がある。
孟子は、「人の性は善である。」と言っている。まさに人間本来は善である。悪は誰しも好まない。そうえあるならば、正義を聞けばすぐ従い、善くないことはすぐに改め、徳を修め学問に精を出しそうなものであるが、実際はなかなかそうはいかない。孔子でさえも「これはわが憂いなり」と嘆くように、意志と行動は一致しにくいものである。それはなぜかというと、人間には私心というものがあって、七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪=憎・欲)に動かされるからである。
家康の遺訓として世に知られる「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」の一句は「論語」「泰伯篇」の「曾子曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす」の文句をふまえたもので、「任重くして道遠し」の一句をかみくだいたのが「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」である。
孔子がふだん弟子に語って教えているのは、深奥な哲理でもなく、神秘的なお告げでもない。平々凡々の、世にありふれた道徳の仁・義・忠・孝・礼・知・信の実行ということだ。
孔子が人を教える場合、文・行・忠・信の四つを挙げることが多かった。しかし、孔子の教育方針は必ずしもこの四つを立てて、定式としたわけではない。孔子は空理空論を避け、実行を重んずると同時に、実行の根本たる精神に重きをおき、これらを裏づける文事をおろそかにしてはいけないことを説いているのである。
「文」は広く文を学ぶことをいい、人生の基本である礼儀作法、学問のたしなみを指したものである。「行」は実行、「忠」は人のために自分の心力を尽くすこと、「信」は信義である。
わが国でもっともよい例は、徳川家康である。関ケ原の戦争に勝って、
天下を握ったのち四年、61歳の正月15日に、子孫に遺訓の文を書いて
いる。
「人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りを敵と思え。
勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身にいたる。
おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。
慶長八年正月十五日
人はただ、身の程をしれ くさの葉の つゆき重きは おつるものかな
この遺訓の貴重な点は、すべて「論語」の説に基づいていることだ。しかも漢文の論語を平易な通俗分に書き下ろしている。しかもことごとく家康の自ら体験したことばかりで、学問あり、思慮あり、見識あり、忍耐あり、節制あり、自分の力で自分の運命を開拓した成功者の、実体験から得た知恵の結晶というべきものである。
「おのれを責めて人を責むるな」は、これも家康が実行したことだ。責任の重い者は衆知を集めなければならない。人の長所をとり短所を責めず、その器に応じて使えばうらみの声も出ず、おのおのがその力を発揮してくれる。
おのれを責めるは謙譲の徳である。謙譲ならば人は敬ってくれる。驕慢ならば人は憎む。人に憎まれては遠い道を行くことができない。
家康には四天王がいて旗本八万騎がいた。これは家康の寛広な人となりで、人を責めず自分のいたらない点を責めた結果といえよう。
物事は中庸を得るのが第一だが、この中庸を得ることは至難である。中庸を得るためには「過ぎたるよりも及ばざるをよし」というやり方る。やりすごしたことは取り返しがつかないが、足りないところは後から補正することもできる。
確実性を必要とする人は、起業家に向かない。そのような人は政治家、軍の将校、外国航路の船長など、いろいろなものに向かない。それらのものすべてに意思決定が必要である。意思決定の本質は、不確実性である。
意思決定を行うことのできる人ならば、学ぶことによって、起業家的に行動することも、起業家になることもできる。起業家精神とは、気質ではなく行動である。
変化を観察しなければならない。その変化が機会かどうかを考えなければならない。本物の変化か一時の流行かを考えなければならない。見分け方は簡単である。本物の変化とは人が行うことであり、一時の流行とは人が話すことである。
鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが自らの墓碑銘に刻ませた「おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男、ここに眼る」との言葉ほど、大きな誇りはない。成果をあげるための優れた処方はない。
絶対にしてはならないことがある。もう1度調べようとの声に負けることである。それは臆病者の手である。臆病者は、勇者が一度死ぬところを1000回死ぬ。
第二の人生をもつには、一つだけ条件がある。本格的に踏み切るかなり前から助走しなければならない。
医薬品メーカーでは、製品の四分の三が10年で入れ替わるくらいでなければ、自らの存在があやしくなることを知っている。しかし、どれだけの保険会社が、商品の開発や改善、勧誘やクレーム処理の研究に、自らの成長、さらには存続さえかかっていることを認識しているだろうか。
つねに1年先を見て、どれだけの資金が、いつごろ、何のために必要になるかを知っておかなければならない。1年の余裕があれば、手当ては可能である。
事業の分離とは、売却ではなくマーケティングである。分離に際して検討すべき問題は、いくらで売りたいかではない。誰にとって価値があるかである。「娘の相手をさがすこきは、誰がよい夫になるかを考えるな。誰のよい妻になるかを考えよ」との諺どおりである。
〒168-0072
東京都杉並区高井戸東2-23-8
京王井の頭線高井戸駅から徒歩6分
駐車場:近くにコインパーキングあり
9:00~17:00
土曜・日曜・祝日