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社労士・行委書士イノキュウこと井上久です。
私のホームページの読者の方は、行政書士試験の受験者の方や、社労士で特定社労士試験に挑戦する方が多いのですが、挑戦の過程で、自分がそうでしたが、いろいろな不安に襲われることもあり、また、開業後も不安は尽きないものと推察いたしております。(自分自身がそうですから。)そんな中、私は、渋沢栄一氏の生き方を学び、その中から、孔子の「論語」を学び、その内容は、ホームページでも紹介させていただいております。今般、私が渋沢栄一の「論語と算盤」を読み、ひじょうに勉強になりましたので、そのエッセンスをご紹介させていただきます。興味のある方は、ぜひ、漫画「まんが超訳論語と算盤」や「現代語訳 論語と算盤」を読まれることをお勧めいたします。
今の境遇を「自己の本分」だと覚悟を決めることです。
渋沢栄一は「自分の本分」だと覚悟を決めること、「身の丈」を守るということを、蟹にたとえて、
蟹は甲羅に似せて穴を掘るという主義で、
渋沢の分を守るということを心掛けておる。
とも言っています。これはどういう意味なのですか?
自分の力を過信して行動するな、ということです。
進むことばかりに気を取られると、足元を見失って大きな問題を引き起こすことがあります。
たとえば、ある程度の成果を上げて目立つようになると、
いろいろな仕事の依頼がくるようになります。
そのなかには、自分がやったことのない仕事もあるでしょう。
自分の仕事というものは、蟹が甲羅に似せて掘った穴のようなものです。
「いまさら、その穴から這い出ることはしない」と仕事を断ることも大切なときがあります。
それが、「分をわきまえる」という姿勢です。
大きな志というのは小さな志との調和が大切なんだがねえ。
これは、『論語と算盤』の、
大なる立志と小さい立志と
矛盾するよがあってはならぬ。
という箇所をかみ砕いて説明してくれたセリフです。
もっとかみ砕くと、人生の目標という大きな志と、毎日の行動という小さな志の両方が必要だということですね。そして同時に、この両者が矛盾しないように一致させることが大切です。
漫然とでも夢や大きな目標は立てやすいのですが、立てやすい分、あとで「この夢でよかったのか」と迷ったり焦ったりしてしまいがちです。
人生の目標を立てても、常に迷いを感じるのが普通だと思います。そのため、目標を立てる前に準備し、物事を判断していくことが大切だ思います。
最初に、自分の長所と短所をしっかりと分析して、明確にする。そして自分が最も得意なことで目標や志を決めます。次に、今自分がいる環境が自分の志を実現しやすいのかどうかの判断も大切です。
人生を一本の木にたとえるなら、伸びる方向性を決める根っこや幹が目標や志にあたります。根っこをしっかりはやすことで、幹がスクスク伸びて、いよいよ枝や葉が育ちます。
その枝や葉が毎日の小さな行いにあたります。そしてその毎日の小さな行いも工夫し続けることが大切です。毎日起きる出来事に、どんな期待があり、それに応えるためにどうすればいいかを考えることが小さな志です。
自分のことをよく知り分をわきまえた上で、大きな志に向けて、小さくとも着実に行動していきましょう。
『論語と算盤』にこうあります。
「常識とは極端に走らず頑固でもなく善悪を見極めプラスとマイナスの両面を分析し中庸の言動をすること」
―さらに、「智、情、意(知恵、情愛、意志)」の3つがそれぞれバランスを保って、均等に成長したものが完全な常識である、と渋沢栄一は説いています。この常識を持つ人が、
偉い人の用途は無限とは言えぬが、完(まった)き人ならいくらでも必要な世の中である。
と評されている「完き人」ということでしょうか?
そうですね。完全な人、もしくは完璧な人とは「偉い人」と違い、とくに欠陥がなく、足りないところのない人のことです。
人間に「智、情、意」という3つの要素があるとすれば、そのどれかだけが優れているだけでは活躍の用途に限りがあります。大切なのは、この3つの要素のバランスがとれていることです。そういう人を。栄一は完全な人、完璧な人と呼んでいるのです。
―では、一方の「偉い人」とは?
何かに突出して秀でたものを持っている人のことです。性格に少し欠陥があるなと感じるような状態でも、その欠陥を大いにカバーできる、ずば抜けた長所のある人―つまり、大きく「とんがっている」人のことです。
現代社会でも、いわゆるヒーローやリーダーのように偉い人は必要です。しかし、偉い人はどうしても少数派になります。社会の大多数の人にとっては、偉い人よりも完璧な人の方が目指しやすいのではないでしょうか。
それに、ヒーローやリーダーが活躍するのは、無限ではなく短期的な分野になりがちです。しかし、「智、情、意」のバランスがとれている常識人。完璧な人が活躍できる分野は多く、長期的に需要があります。
本当の経済活動は、社会のためになる道徳に基づいかないと、決して長く続くものではない。
渋沢栄一は、『論語と算盤』でそう書いています。
―道徳や仁義を守ることと自分の利益を追求することを両立するのは、なかなか難しいように感じています。自分の利益を追求すると、道徳や仁義がない人に見られることもあります。渋沢栄一は
富みながらかつ仁義を行い得る側は沢山にある。
とも書いていますが、これは本当なのでしょうか?
自分の利益のために働くと仁義が欠けていると見られてしまうのは、大変残念なことですね。公の利益のために働くのであれば、利益がでなくてもよいと思う人も多いように思います。
しかし、現実社会で成功してお金を持つ人たちは、どういう動機であれ、事業や商売を通じて、世の中の多くの人たちに喜ばれるなにかをすることで富を得ています。
一部には、自分だけ儲かればいい、社会や他人はどうでもいいという態度をとる人も見かけますが、それはとてもみっともないことです。そういった人は、短期的に成功はしても、長期的に成功し続けていないように思います。
―恥ずかしい話ですが、お金持ちに対する嫉妬心から「あれだけお金を儲けているなら、何か悪いことをしえちるはずだ」と思い込んでしまうこともあります・・・・・。
他人のお金について考えたり、お金持ちが悪いと思うのではなく、自分が得たお金を自分や社会にどう使っていくのかを考える方がより重要なことだと思います。自分のためであろうと、世のため、人のためであろうと、働いて得たお金を消費や寄付や投資することで、社会によい循環が生まれます。お金がよく循環すると、どんどん社会は豊かになっていきますからね。
単に「理解」するより「大好き」が強い。そして、「大好き」より「楽しい!」が強いんです。
―このセリフのもとになった「この熱誠に要す」の項では、
人が職掌を尽くすというにも、この趣味を持つということを深く希望する。
とあります。しかし、イヤイヤ仕事をしている場合には、なかなか仕事を趣味とは思えません。
「趣味」とは「大好きなこと」や「楽しいこと」もしくは、「理想」「欲求」ともいいかえられますね。与えられた仕事をたた機械のようにこなしていくだけではなく、その業務に対して面白さや楽しさを見つけることで、力を発揮できるようになります。そうすれば、そう遠くない未来に志や理想を叶えることになるでしょう。にかをすることで富を得ています。
―嫌な仕事でも、力を発揮できるようになれば、楽しさを見いだすことができますね。そのためにも、目の前のことに興味を持つ。なるほどど思いました。
「孔子の言葉を付け加えておきますね。孔子の言った「之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず」とは、「学問において、知識を知っている人間は勉強することが好きな人間には及ばず、勉強をすることが好きな人間は勉強を楽しんでいる人間には及ばない」ということです。
これは仕事にはもちろんのこと、どんなことにもあてはまる言葉です。それをすること自体を楽しんでいる人がいちばん強いと思います。
肩書きにふさわしい人格を育てるといいですよ。
―「人格と修養」の章では、素晴らしい人格とはどういうものなのかが書かれていますね。読んでいてとくに気になったのは、
人と争って自分は間違っておっても強情を張り通す。これが元気がよいと思ったら大間違いである。
という箇所です。感情がわくわくして盛り上がると、まわりの人も同じ思いになってくれると思い込み、結果、玉砕するということがよくあります・・・・・。
どうしたらいいのでしょうか?
エネルギーにみちあふれて、威勢や覇気があるというのは人生をよく生きるために大切なことです。しかし、その真意は誤解されがちです。
たとえば、大声で自分のことや夢を語るのが元気で素晴らしくて、何もしゃべらないのはよくないことなのでしょうか?それは違いますよね。
社会問題になっているあおり運転をするようになってはいけません。一人気を吐いてまわりをふりまわすのではなく、まずは自分の力を信じて、エネルギッシュに行動をすることが大切なのです。
そうしながら小さくてもいいので、どんどん自分の信念や志を実現していくのです。そして、自分をより高めようと、ひたすら行動することにエネルギーを使いましょうと、栄一は言いたいのだと思います。
一個人の利益になる仕事よりも、多くの人や社会全体の利益になる仕事をやるべきなんです。
―仕事の「王道」についての解釈です。
これは、
もしそれ富豪も貧民も王道をもって立ち、王道はすなわち人間行為の定規であるという考えをもって世に処するならば、百の法文、千の規律あるよりも遥かに勝った事と思う。
という言葉と地続きですね。
貴賎に関係なく、人が「王道」、つまり仁徳にのっとって生きること。「王道」を人生の基準として言動し、事にあたるならば、何百、何千という法律や規律によるよりも、ずっと正しく生きることができるといっていますね。
―「王道」を基準に生きたいと思うのですが、いざやろうとすると、自分のような普通の人間ができるとは思えず、自信が持てない人が多いと思います。どうすれば「王道」をで生きることができるのでしょうか?
「王道」というと大仰に聞こえる言葉ですが、わかりやすく言い換えると「人が胸を張って進むべき道」のことです。また「法律や社会的規範とは別に、人が自らを律するルール」とも言えます。
社会の問題は、法律だけで解決することは難しいことが多いですよね。その一方で、人と人とのあたたかい心のつながりで、解決できることもたくさんあります。
法律だけを基準に考えて、「法律にふれないから、やってもいい」と判断するのでは、社会がよい方向に進展するとは思えません。それよりも、「どちらを選んだら胸を張って進めるのか?」と判断して生きる方が簡単ですし、その方が社会全体も健全になっていきます。
あまり難しく考えず、自分の良心にそった選択をすることが、「王道」で生きることにつながると考えてみてください。法律を守ることだけが尊いことなのではなく、良心に従って「王道」で生きることが大事なのです。
「武士道を大事にしていては商売はうまくいかない!」とされていた時代
渋沢栄一は、経済活動にこの武士道を用いて「信用」を築いていきました。
―「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるように、武士=清貧のイメージがあります。経済活動とうまくイメージが結びつかない人も多いと思うのですが、渋沢栄一は、
武士道すなわち実業道なり
と書いていますね。
武士道はビジネスにも通じる!というのが栄一の考えなのですね。
―武士道は、多くの現代人がなくしてしまった感覚、生き方なので、とくに理解が難しいように感じます。そもそも武士道について教えていただいただきたいのです。
武士道は、近世以降、武士階級の間で発達した道徳、倫理や価値基準が体系化された思想で、日本の思想の最高傑作ともいえます。実際に、かつて新渡戸稲造が書いた「武士道」は世界のベストセラーになりました。
武士道が確立したのは江戸時代です。朱子学を中心とする儒教の影響を受け、武士が支配階級であるためにふさわしい立派な精神や行動を求められるようになったことが根底にあります。
では、武士道の真髄とは何かといえば、孔子が「金と地位は誰でもほしいが正しい方法で得なければならない。貧乏なのは誰でも嫌だが、それも怠惰などのなるべくしてなる正しい方法があってなるのだ」と看破しています。
時代や人によって解釈が異なりますが、栄一は、その真髄を「廉直(まっすぐなこと)」「敢為(筋を通すこと)」「礼譲(礼を尽くすこと)」などの人間の美徳をすべてあわせたものとしています。そして、これが信用であり、ビジネスにも不可欠と説いているのです。
「親から子に対して『孝行しなさい』と強制するのはかえって子供を親孝行に追い込んでしまうものだ」と。
―少しビジネスの話からはそれますが、私の「孝」という名前のもとに、親孝行について語ってくださった箇所です。『論語と算盤』には、
孝行は親がさしてくれて初めて子供が出来るもので子が孝をするのでは無く、親が子に孝をさせるのである。
とありますね。
少し解説すると「親孝行とは、子どもだけがやろうとしてもできるものではありません。
子どもが親孝行するのではなく、親が自然と、子どもにさせるものだ」ということですね。
―これから親になる人が多いであろう私たちの世代こそ、心に留めておきたい言葉です。
子どもが自分の思うようにならないと、「親不孝者」と責めてしまう親がよくいますが、それは大きな間違いだと思います。たとえば創業社長である親が、無理矢理、自分の会社を子どもに継がせようとすれば、子どもはかえって親に反抗し、会社を継がないという選択をするなどして、親不孝者になってしまうでしょう。
だからといって、親の言いなりになる子どもが素晴らしいかといえば、それも違います。親の言うことをただ聞くのが親孝行というわけではありません。
親が子どもに一方的に孝行を要求せず、寛大な心で子どもの思うままの志に向かわせてやれば、子どもは自然に親に感謝し、孝行を尽くすようになるはずです。
そして、親がそういった振る舞いをしない場合は、子どもは親に従わなくてもよいのです。親は本来、子どもの幸せを願う存在です。そういう親であれば、子どもも自然と親の幸せを願い、できるう孝行を自然とするものだと思います。
「論語と算盤」には先ほどの文章に続いてこのようなことが書いてあります。
「たとえ事前に定まっていたとしても自分で努力してその運を開拓していかないと、けっしてこれを掴むことはできないのだ」と
―運をつかめなかった、つまり成功しなかったのは努力して運を開拓しなかったから、と勘違いしてしまうかもしれないセリフですが、「成功と運命」の章の、
人を見るに、単に成功したとか
または失敗したとかを標準にすすのが
根本的誤りではあるまいか。
成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の
身に残る糟粕のようなものである。
という言葉をあわせて読んで、ハッとしました。「失敗したくないから努力しよう、運をつかもう」という考えを見透かされていたようで・・・・・。
栄一の時代から100年を経た今でも、多くの人々は、成功や失敗を強く意識しています。「成功し、お金や財産を得うることこそが生きるために必要なのだ」と感じている人も多いでしょう。
しかし、それらは本来、生きるためには必要のないことなのです。自分の命の実質的な価値に比べたら、お金や財産という成果はカスに等しいと栄一は言っています。
―自分の命の実質的な価値。『論語と倫理』のあらゆる言葉は、それを深く考えるための補助線となって、私たちにこの命題と向き合うヒントをくれますね。最後に、「運命」について考えてください。
栄一は、運命とは「運ぶ命」と考えていたと思います。宿命、「宿る命」のように変われないものではない。運命とは自ら変えられるものであり、人生のすべてを支配しているわけではないと考えました。逃れられない運命の流れにそいつつも、自分の知恵を磨き、努力することで、運命を開拓することができるとして最後まで懸命に生きました。
いつも学び、知恵と行動力を身につけていけば、チャンスがきたときにそれをチャンスだと見極め、つかむことができます。ときには、運命のつかみ方の違いや生まれ持って得ているものの差によって、善人であっても悪人に負けているように見えるときもあります。
しかし、人生100年時代といわれるようになった現代はなおさらですが、長い人生すべてをかけてみれば善悪の差は明確につくものです。自分の知恵を蓄え、誠実に努力すれば、たとえ今は逆境に苦しんでいたとしても、必ずその人は運命を開拓できるのです。
成功や失敗という基準は、長い人生における一つの過程で起きた「あや」でしかありません。だからこそ、焦ることなく人生を大いに楽しみましょう。
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