google-site-verification: google0f9f4f832944c3e4.html


稲盛 和夫 特別講話「人は何のためにいきるのか」(2013年10月29日 大阪国際会議場)

 

特別講話 稲盛 和夫

致知2022年12月号表紙

盛和塾生のみならず、一般の方々にも

よりよい人生を歩んでいただきたい一。

そんな稲盛氏の想いにより実現した盛和塾主催の

市民フォーラムは、2002年から2016年にかけて、

日本・海外の各地で累計十万人もの人々を動員した。

2013年10月29日、大阪国際会議場で

開催された講演会には二千五百名を超える参加者が

集い、ホールに入りきらない人々が別室のモニターから

聴講するほどの熱気に溢れたという。

人が自ら運命を創り、素晴らしい人生を生きるための

ヒントに満ちた珠玉(しゅぎょく)の講話をここに収録する。

人は何のためにいきるのか

いなもり・かずお

昭和7年鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業。34年京都セラミック(現・京セラ)を設立。社長・会長を経て、平成9年より名誉会長。昭和59年には第二電電(現・KDDI)を設立、会長に就任、平成13年より最高顧問。22年には日本航空会長に就任し、27年より名誉顧問。昭和59年に稲盛財団を設立し、「京都賞」を創設。毎年、人類社会の進歩発展に功績のあった方々を顕彰(ちょしょう)する。中小企業経営者のための勉強会「盛和塾」の塾長として、後進の育成に心血を注ぐ(令和元年解散)。令和4年8月24日、90歳で逝去。著書に『人生と経営』『「成功」と「失敗」の法則』『成功の要諦』『稲盛和夫一日一言』(いずれも致知出版社)など多数。 

☆八十一年の人生を振り返っての感慨

 私は今日まで生きてくる中で、多くのことに気がついておりますが、その一つは現在が苦しければ苦しいほど、とかく人というものは愚痴や不平不満を鳴らしてしまうというものです。しかし、その愚痴や不平不満は、結局は自分自身に返ってきて、自分自身をさらに悪い境遇へと追いやってしまうのが常であります。そのことを、私は自分の80年あまりの人生で体験してまいりました。

 人はどんな境遇にあろうとも、感謝の心というものを忘れてはならないのだと、私は思っております。常に感謝をし、自分の周囲にいる人たちに対しても御礼を申し上げる。また、現在のこの社会、そして自然に対しても感謝をする。そういう美しい心を持つことがたいへん大事なことだと、私はかねてから思ってきております。同時に、そのような澄み切った美しい心を持って人生を生きていけば、必ずその人の人生には素晴らしいい未来が待ち受けているのだと、私は固く信じております。

 人生というものはどのようにつくられているのか、自分には将来、どのような人生が待ち受けているのかということは、誰も知るよりがありません。しかし、人生を渡っていく中で、「人生というものはどのようにつくられているのか」ということを、若干でも知っているのと全く知らないのとでは、今後、皆さんが歩いていかれます人生の方向は変わっていくように私は思います。

 私は本年(2013年)で満81歳になりました。元々はファインセラミックスを研究する技術屋で、ファインセラミックスの研究を開発をしておりました。27歳の時に、私を支援してくださる方々によって京セラという会社をつくっていただきました。その後、今日まで50数年間にわたり経営にあたってまいりました。

 「今、私は会社を経営しているけれども、果たしてうまく経営していくことができるのだろうか。どうすれば倒産という悲劇から免れることができるのだろうか。どうすれば従業員を幸福にできるのだろうか」。そういうことを思いながら、日々必死の努力を続けておりました。

 

☆運命という縦糸と因果の法則という横糸

 その中で、人生とはどうなっているのだろうかということを、ずっと考え続けておりました。我々個々人が生まれた時から死ぬまでの間に、どういう道を辿っていくのか。それはもうすでに決まっているのではないだろうか。すなわち、人にはそれぞれ決められた運命というものがあるのではないだろうか。私はそういうふうに思うようになりました。

 つまり「私たちは自分の定められた運命という縦糸を伝って人生を生きていくのだ」と思うようになったのです。

 同時に、私たちはその運命というものに翻弄されながら、人生の中で様々なことに遭遇していきます。

そして、その遭遇する過程の中で、人は善いことを思ったり、善いことを実行したりします。それによって人生というものがよい方向へと変わっていく「因果の法則」があるということも、私は同時に思い始めるようになりました。

 つまり自分自身に定められた運命に従って生きていく節々で自分が思ったこと、自分が実行したことによって、人生の結果がまた新たに生まれてくる。この因果の法則というものが横糸として、我々の人生の中を走っているのではないかと思うようになったわけです。

 運命という縦糸があり、因果の法則という横糸がある。この二つの糸で織られていったものがそれぞれの人の人生を形づくっている。そのように考えてまいりました。

 経営に悩みに悩んでいた若い頃です。東洋哲学を広く世間に説いていらっしゃいました安岡正篤さんの著書『立命の書「陰騭録(いんしつろく」を読む』に出会ったことが、私が運命の因果の法則を信ずるきっかけになりました。中国の『陰騭録』という本を、安岡さんが解説していらっしゃる本なのですが、運命と因果の法則で織りなされているのが人生なのだということがよく説明されております。

 今から、この本で解説されております『陰騭録』のあらましを申し上げてから、あとの話を続けていこうと思っております。

 この『陰騭録』という中国の書物は、今から四百年ほど前、中国が明の時代の時に袁了凡(えんりょんぼん)という人が書かれたものです。日本では豊臣秀吉や徳川家康などが活躍していた頃ですから、それほど遠い昔の話ではありません。

 袁了凡さんがまだ袁学海という名前であった、幼い頃のことです。ある日、「私は中国の南の国で易を究めた者だ」という白髪の老人が訪ねてこられました。易というのは、日本でいう占いのことで、中国では古くからあり、これはたいへん深遠な学問体系をなしているものであります。

 その白髪の老人は「この国にいる袁学海という少年に、私が究めた易の神髄を伝えよという天命が下った。そこで、遠い南の国からお前さんを訪ねて、わざわざこの国まで来たのだよ」と、そのように言われます。

 その夜、老人は、お父さんを若くして亡くしているために、お母さんと二人暮らしの学海少年の家に泊めてもらいます。そして、その夜、学海少年を見つめながら、お母さんに少年の未来について話を始めます。

 「お母さん、この子を医者にしようと思っておられますね」と、お母さんに聞きます。

 お母さんが「はい、そのように思っています。私どもはお祖父さんの代から医者の家系でございまして、若くして亡くなったこの子の父親も医者でございました。ですから、この子も医者にしようと思っています」と、そのように言われます。白髪の老人が「いえいえ、この子は決して医者にはなりません。科挙(かきょ)の試験を受けて、立派な高級官僚として出世していきます」と、そのように言います。

 この科挙の試験といいますのは、中国では、立派な高級官僚、つまりお役人をつくるための全国的な試験で若い者が偉くなるために受ける試験であります。

 老人は話を続けていきます。

「この子は何歳になった時に郡の試験を受けるでしょう。その時は何人中何番で合格するでしょう。

そののち、何歳になった時に県の試験を受け、その時も何人中何番で合格するでしょう。何年かのち、さらに上級の試験を受けますが、その時は残念ながら不合格となりましょう。しかし翌年、再度試験に挑戦し、何人中何番で合格しましょう」

 白髪の老人は、科挙の試験の各段階の結果がどうなるかということをずっと語っていきました。

 「最終の国家試験に合格し、この子は中央の役人へと出世します。若くして地方の長官となりましょう。結婚はしますが、残念ながら子供には恵まれず、53歳でこの世を去る。この子はそういう運命になっています。

 そのように易を究めた、つまり人の運命を当てることができる易の大家として、白髪の老人が少年を見ながらお母さんにそういうふうに説明をします。

☆人間の運命は決まっているのか

 その後、学海少年はその白髪の老人が話した通りの人生を辿っていきます。何歳の時に何の試験を受け、何人中何番で合格する。ある時には合格しなかった。すべて、白髪の老人があの夜、言った通りの結果を迎えていきます。

 最後には、見事に中央の役人となり、学海さんは若くして地方長官に、老人が言った通り任ぜられます。赴任先には立派な禅寺がありました。そこには雲谷禅師という有名なご老師がおられることを知っておりました学海長官は、早速禅寺を訪ねていきます。

 また、禅寺の雲谷禅師も、最近、立派な若い長官が赴任してきたということを聞いておられましたので、「よくいらっしゃいました」と学海長官を迎えます。同時に、「それでは、せっかく来られたのですから、ご一緒に座禅でもやってみませんか」と、そのように誘われます。そして、その若い学海長官の。雑念妄念が一点もない、澄み切った素晴らしい座禅を組んでいる姿を見られた、その禅寺の雲谷禅師は舌を巻かれます。

 「何と立派な。お若いのに、少しも雑念妄念が浮かんでこない、これほどまでにきれいな座禅が組めるという人は見たことがありません。よほどの修行をなされたに違いありません」と、そのように言われます。

 学海長官は「いいえ、何も特別な修行などはしておりません。しかし、もし私に雑念妄念がなく、澄み切った心境をしているとご老師が見られたのであれば、それには言われてみますと、思い当たる節があります」と言います。

 「実は少年の頃、白髪の老人が訪ねてこられまして、母と私に私の運命について話をしてくれたのです。私はその老人が話した通り、若くして長官になり、この地へ赴任してまいりました。結婚はしましたが、いまだに子供は生まれておりません。やがて53歳で寿命がくるとあの白髪の老人から言われていますから、私も53歳までの命だと思っています。ですから私は、今後ああなりたいとか、こうしたいとか、そういう希望や野心は何ひとつ持っておりません。私は運命の命ずるままに、淡々とこの人生をまっとうしていこうと思っています」

 「運命が決まっているのだから、またあの白髪の老人が言った通りの人生を寸分違わずここまで辿ってきているのだから、それ以上のことを考えて悩むことはないと思っているだけです。それをご老師は、私が澄み切った心境であるかのように受け取られたのでしょう。私は、今までも、あおの白髪の老人が言った通りの人生を歩んできました。今後もあの老人が言った通りの人生を歩んでいくはずです」

☆運命を変える因果の法則

 話がそのように終わると、それまでたいへん柔和な顔をして聞いておられたご老師の表情が突然変わります。にわかにきつい顔になって、学海長官を激しくります。

「素晴らしく聡明で、若くして悟りを開いた賢人かと思ってが、あなたはそんな大バカ者だったのか」と言われます。

 そして続けて、「たしかにその白髪の老人が話した通り、我々には皆、それぞれ運命というものが備わっています。しかし、その運命のままに生きるバカがいますか。運命というのは、変えられるのです。因果の法則というものがあり、人生を運命のままに生きていく途中で、善いことを思い、善いことを実行すれば、運命はよい方向へと変わっていきます。また逆に悪いことを思い、悪いことを実行すれば、運命は悪い方向へと変わっていくのです。この因果の法則というものが、我々の人生には皆、厳然として備わっているのです」

「人は皆、運命の命ずるままに人生を生きていきますが、その中でいろいろなことに遭遇をした時に、善いことを思い、善いことを実行したとすれば、その人の運命はよい方向へと変わっていくのです。それが我々の人生というものなのです」

 雲谷禅師は、そのように学海長官に諄々(じゅんじゅん)と話をされます。若くして長官になっただけあって、学海さんは素直な方だったのでしょう。雲谷禅師の教えにたいへんな感銘を受けた学海長官は、寺を後にして家に帰っていきます。そして家に帰って奥さんに次のように言います。

「実は今日、禅寺で雲谷禅師とお会いして、このようなことを教わった。だから私は今日から、どんな小さなことでもいいから、人に好かれるような、人に親切にするような、善いことを思い、善いことを実行していこうと思う。その数が多ければ多いほどよいと、ご老師に教わった」

 そのように奥さんに言います。

「ああ、そうですか。あなたがそう思うなら、あなた一人でそれを実行するだけではなくて、私もいっしょにやりましょう。二人で今から、どんな小さなことでもいいから、少しでも善きことを思い、善きことを実行していくように心がけて、生きていくようにしましょう。今日はどれくらい善いことをしたのか、表に〇×(まるぺけ)をつけていきましょう。近所の人に親切にしてあげた、笑顔で接してあげたという些細(ささい)なことも、善い思いだと思いますので、それを実行していきましょう」

 奥さんも聡明で、素直で明るい方だったのでしょう、そのように話をします。

 この『陰騭録』(いんしつろく)という本は、ここで場面ががらっと変わります。

 「なあ、息子よ。お父さんの人生は、実は今まで話したような人生だったのだよ。禅寺でご老師にお目にかかり、人生には因果の法則というものがあることを教えてもらった。そののち、お前のお母さんといっしょになって、少しでも善いことを思うように心がけ、その思ったことを少しでも実行していくという人生を歩み始めた。そういう人生に努めるようになってから、あの白髪の老人には決して生まれてこないと言われていたお前が生まれたんだよ。そして53歳で寿命だと言われていた私が、70歳を過ぎた今もこうして元気にしている」

 そう息子に語っている場面に変わるのが『陰騭録』のあらましです。つまり、幼少の頃から、出世して長官となり、禅寺に行って雲谷禅師にお目にかかり、人生には運命を変える因果の法則というものがあるのだということを聞くまでの間は、すべてあの老人の言い当てた、もともと自分が持っていた運命のままに生きてきた。

 ところが、雲谷禅師にお目にかかって、「人生の中で運命に従って生きていくけれども、その節々で善いことを思い、善いことを実行すれば、運命はいい方向に変わっていく」ということを聞き、実践したことで、まさに運命が変わっていった。そのことを、息子と話している姿です。

☆万物を生成発展させる「宇宙の意志」

 当時、京セラという会社はまだ中小企業でございました。不況の嵐に見舞われて、いつ潰(つぶ)れてしまうかわからない。しかし、なんとか潰れないようによい経営を続け、従業員を守っていかなければならない。お金を出していただいた株主の方々のためにも、必死で頑張らなければならない。若くして経営に携わるようになり、一寸先すら見えない人生を、どうじて渡っていけばよいのかと悩んでおりました時に、私はこの本に出合ったわけです。

「なるほど、人生はこういうふうになっているのか。もしそうであるならば『陰騭録』が教えてくれているような生き方をしていかなければならない」、私はそのように思い、「どのような運命に遭遇しても、善いことを思い、善いことを実行するような人生を送っていこう」、この『陰騭録』に出会った私は、そのように強く思うようになっていきました。

 しかし、そうは思ってはみたものの、当時の私はまだ27歳という若さです。また、理工系の大学を出て、ファインセラミックスの研究開発を行ってきた技術者です。合理的で理屈っぽい私は、簡単に「善いことを思い、善いことを実行すれば、人生の結果はよい方向へと変わっていく」という、そういう単純なことを信じようと思っても、なかなか心の底から信ずることはできませんでした。

 そのように私が、『陰騭録』が説いている「因果の法則」を信じようと必死に悩みながら考えていた頃、天文物理学の先生から大宇宙の始まりの話を聞く機会がありました。

 我々は宇宙の中にある地球に住んでいますが、この地球を含む膨大な宇宙は、今から百三十七億年をかけて、ついには我々人類のような高等生物までを生み出してくれました。

 この宇宙には、森羅万象のあらゆるものを生成発展させていく法則があるのだと言ってよいのかもしれません。あるいは、元素、原子のような無機物、無生物であっても、また我々のような動物や植物であっても、常にすべてのものを生成発展させていく「気」が。この宇宙には流れているのだと言ってよいのかもしれません。

 この宇宙には、すべてのものを慈しみ、優しく育てていく愛が充満している。また言葉を換えて言いますと、この宇宙にはすべてのものを慈しみ、よい方向へと育てていこうという、「宇宙の意志」があると言ってもよいのかもしれません。

 私は天文物理学の最先端の理論であるビックバンセオリーを聞いた時、「宇宙には素晴らしい愛が充満し、すべてのものを慈しみ育てていくような意志がある」ということを強く思いました。同時に、そのような素晴らしい宇宙に住んでいるからこそ、我々がどのようなことを思い、どのような想念を抱き、どのようなことを実行しているのか、ということが大切になってくるのではなかろうかと思い始めました。

 この宇宙には、すべてのものをよい方向へと進めていこうという宇宙の意志が充満しています。よい方向へ物事を進めていこうという想念が充満しています。すべてのものを愛し、すべてのものを慈しみ、すべてのものを善かれしかと願うような、そのような想念が流れている。その宇宙の中に我々は住んでいるのです。森羅万象あらゆるものをよい方向へよい方向へと、幸せに生きていけるようにと推し進めている宇宙の中に住んでいるのが我々人間です。ですから、この宇宙と同じような善き思いを抱き、実行した時には、必ずその人の運命はよい方向へと変化していくはずです。

 『陰騭録』で説かれている因果の法則は迷信ではないのです。天文物理学の最先端理論であるビックバンセオリーから考えてみても、それは辻褄(つじつま)が合うのです。私はそのように思い、それを深く理解することによって、因果の法則を心の底から信じられるようになってまいりました。

 「科学的に考えても因果の法則が厳然として存在するのだから、私はそれに従って生きていこう。それが人生を素晴らしいものにしていくからだ」、そういうふうに、私は信ずることができるようになってまいりました。

☆因果の法則に従うことで好転した私の人生

 因果の法則を信じ、それに沿って生きていこうと思い、私はそのことを実行してまいりました。しかし実際のところは、人生というものはなかなか思い通りにはいきません。思わぬ災難にも出遭いましたし、思わぬ幸運にも出合いました。

 この人生を一喜一憂しながら、私は今日まで生きてまいりましたが、企業経営に懸命に努めながら、私自身が出合った数多くの災難や幸運のことを、私は両方とも人生における試練なのだと思っております。そして、そのような人生における試練に出遭った時、その試練にどのように対処したのかによって、その後のその人の人生が決まっていくのではないかと思っています。

 自然というものは、我々が運命に従って人生を生きていく中で試練というものを与えます。私の言う試練とは、ある時には降りかかってくる災難であり、またある時には降りかかってくるラッキーな幸運の事でもあります。

 私は、幸運に恵まれることも試練なのだと思っております。幸運に恵まれ、ラッキーな人生を歩み始めれば、とかく人間というものは謙虚さを忘れ、傲慢(ごうまん)になってしまいます。贅沢(ぜいたく)をするようになったり、人を軽蔑(けいべつ)するようになったり、人間が変わっていきます。やがてその人は、謙虚さを忘れ、傲慢になっていったがために、せっかく得られた幸運から見放され、没落をし、転落をしていく、そういう人がいることを思えば、幸運というものも神が与えた試練の一つなのです。災難だけが試練ではないのです。

 幸不幸いずれの試練に出遭った時も、どのように対応するのかによって、その後の人生が変わっていくと思っていた私は、「災難に遭おうとも、幸運に恵まれようとも、どんな試練であろうとも、それを感謝の心で受け入れていこう」と考えてまいりました。災難とも思えるような試練に出遭った時でさえも、「ありがとうございます」という感謝の心でそれを受け取ろうと考えてまいりました。

 「自然が、神様が、私にこのような厳しい災難を与えたもうた。それは私に何か気づきを与えようとしているのだ。そのために災難を課してくれた。だから、この厳しい災難を与えてくれた自然に対して『ありがとう』と感謝しよう」

 同時にこの災難を乗り越えて、勇気をもって、力強く生きていく強い意志も我々は持っております。「どんな災難にも挫(くじ)けないように、厳しい現実を直視しながら、勇気を奮い起こし、何くそという強い意志で、その災難を乗り越えていく努力をしていこう」と、私はそのように思いました。

 とかく人というものは、災難に出遭えば、「なぜ私だけがこんな目に遭うのか」と思ってしまい、世間を恨んだり、人を妬(ねた)んだり、挙げ句の果ては嘆き悲しみ、自分自身を腐らせてしまう。毎日のように不平不満、愚痴を並べ立て、自分の人生をますます暗いものにしてしまうのが普通であります。

 「どのような試練に遭おうとも、それは試練として神が私に与えてくれたものだと受け止め、前向きに、ひたすら明るく努力を続けていく生き方をしていこう」

 私はそのように思い、そういう人生を生きてきたつもりです。

☆災難続きだった青少年時代

 私が具体的にどのような人生を辿ってきたのか、若干お恥ずかしい話になりますが、私の人生を振り返りながらお話をしていこうと思います。

 私は、九州の最南端に位置する鹿児島市内に生まれました。小学校の頃は決して利発な子供ではありませんでした。遊びに夢中になっている、いわゆるガキ大将の一人でした。第二次世界大戦の最中、県で一番優秀な鹿児島一中という旧制中学を受験しましたが、あまり勉強をしていなかったこともあり、合格することができませんでした。

 その後、当時国民学校高等科というのができまして、一年間通い、翌年再び鹿児島一中を受験したのですが、これも失敗してしまいました。まだ十二歳の時です。また、この時に運悪く、私は肺結核にかかりました。死ぬような思いで闘病生活を送り、その最中に受験をしたわけであります。そういう中で熱を押しながら、鹿児島一中が受からなかったものですから、私立の鹿児島中学を受験し、やっと合格しました。

 戦時中に鹿児島市内は空襲に遭い、印刷屋を営んでいた私の実家も焼け、父親は仕事を失ってしまいました。そのために、戦後は焼け野原の中で、たいへん困窮した生活を送ってきました。

 両親のもとに七人兄弟。そういう大所帯の中で、焼け跡の中、食糧難でたいへん苦しい貧乏な生活を送りました。とても大学などには行けそうもない状態だったのですが、高校の先生が両親に強く勧めてくれたおかげで、なんとか大学には進むことができました。しかし、第一志望であった大阪大学医学部には合格せず、詮方(せんかた)なく、地元の鹿児島大学工学部応用化学科へと入学しました。

 やがて卒業の時期が来、就職の時が来ました。しかし、私が大学を卒業した昭和30年という年は、まだ、戦争が終わって10年しか経っておりませんでした。いたるところに戦争の焼け跡が残ったままになっておった時代です。同時に、朝鮮戦争が終わったことによる不況で就職難となっておりました。どの会社も大卒を採用してくれませんでした。いくら成績が優秀であっても、地方の大学を出た学生が中央の一流会社に採用してもらうことなど、到底不可能な時代でありました。

 そんな私を見て、大学の先生は不憫(ふびん)に思ったのでしょう。いろいろと走りまわってくださった末に、京都の焼き物の会社を見つけてくださりました。

 そこは、松風工業(しょうふうこうぎょう)という電力線用の碍子(がいし)をつくっている会社でございました。入社してみますと、歴史はある会社でしたが、戦後ずっと赤字を続けている会社であることがわかりました。そのために、「ボーナスを出せ、昇給せよ」と、毎年労働争議に明け暮れておりました。私も入社の翌月から給料が一週間も二週間も遅れて給料がもらえるというような会社でした。

 4月に入社して、その年の秋頃には、同期で入った大卒4人は皆辞めていき、私一人だけが残ってしまいました。しかし、就職難の時代です。辞めたところで行くあてもありません。また、私には兄さんが一人、弟や妹があと5人おりました。その弟や妹たちの面倒もみなければならない。それなのに就職難の時代に、行くあてもないのに会社を辞めるわけにはいきません。その会社に残らざるを得ませんでした。

 逃げていく場所がなかったのです。詮方なく、私は会社の粗末な研究室で、命じられた新しい時代に必要となるファインセラミックスの研究に没頭し始めました。

 あの頃の私は、人生というものが儚(はかな)く惨(みじめ)めなものに思えただけに、世の中の現実から逃れ、世の中の憂さを忘れてしまおうと考えておったのかもしれません。そういう考えのもとで研究に没頭し始めたのだと思います。研究室に泊まり込み、自炊をしながら、連日のように研究に没頭していきました理由は、現実の厳しい社会、そういうものから逃避しようと思ったのが、研究に没頭した理由なのかもしれません。

 当時、研究室で自炊をしながら朝から晩まで研究に没頭したわけですが、朝ご飯を三食分釜で炊いて、それも七輪(しちりん)で炊きました。おかずはネギが入った味噌汁だけでした。ネギを買ってきて刻んでぱらぱらと入れて、あとは味噌汁、そこへ天ぷらのかすを分けてもらってきて、天かすをばらまくと。そういうのがおかずで、毎日三食、ご飯と味噌汁だけで暮らしながら、研究に没頭していきました。

 不平不満を漏らし、自分の人生を腐らせていくよりは、今、目の前にある研究に没頭しよう。その純粋に研究へ没頭していくようになってまいりますと、立派な研究設備などなかったにもかかわらず、創意工夫をして次から次へと研究を進めていくに従って、素晴らしい研究成果がでるようになってまいりました。

 その結果、上司に認められるようになり、学会で発表すれば多くの学者からも褒(ほ)められるようになりました。そうなれば、さらに元気が出てきます。嬉しくなってきます。そうして、さらに頑張るようになります。頑張るものですから、さらに研究がうまくいくようになります。そのように、次から次へと善の循環が始まりだしたのです。私の運命が好転するようになったのは、ここからでした。

 そういう経験をしてきただけに私が先ほど言いましたこと、つまり、災難や幸運を神が与えてくれた試練として受け止め、前向きにひたすら明るく努力を続けていく生き方していきたいと素直に思えるようになったと思います。

 子供の頃から会社に入るまでのこと、そしてその後、私の運命が好転していったことを考えれば、たしかに因果の法則というものは存在していますし、その因果の法則が示しているものは正しいことだと思っております。私は今、心から因果の法則を信じております。

 私が27歳の時につくっていただいた京セラという会社は今日、一兆三千億というたいへん大きな売上規模を誇り、日本を代表するメーカーの一つに成長しました。また、三十年近く前のつくりました第二電電、現在のKDDIも、auという携帯電話事業を通じて、四兆円に迫る売り上げをあげる、たいへん立派な会社に成長しております。この京セラとKDDIを合算すれば、年間六千億以上という驚異的な営業利益を計上できるような素晴らしい会社になっております。

☆「利他の心」に基づく日本航空再建三つの意義

 もう一つ例があります。私が近年、携わってきた日本航空の再建であります。「他の善かれかし」と願う純粋で一途な思いが強大なパワーを発揮して、破壊(はかい)した企業を救ったばかりか、高収益企業へと変貌させた。今思えば、日本航空の再建も、善きことを思い、善きことに努めてきた結果であるように思えてなりません。

 2009年の年の暮れ、私は政府と企業再生支援機構から「日本航空が倒産しかけている。再建のために日本航空の会長に就任してほしい」と強い要請をいただきました。私は航空業界には全くの素人であり、また高齢でもあります。引き受けてよいものかどうか、たいへん悩みました。私はその任ではないと思い、何度も何度もお断りをいたしました。また、私の友人や知人、そして家族の誰もが大反対でした。「晩節をけがすのでは」と心配してくれた友人も多くおりました。

 考え悩んだ末、何回も何回も頼まれた結果、私の考えが変わっていきました。「世のため人のため役立つことをなすことが人間として最高の行為である」という若い頃からの人生観に照らし、またこれから申し上げます三つの理由からも、最終的にはお断りすることもかなわず、日本航空再建の要請を引き受けることに決めました。

 全く自信も何もありません。経験もありませんし、航空業界も何も知りません。そういう無知でありながら、引き受けたわけであります。それは若い頃から、先ほど言いましたように、人生の中で一番大事なことは、「世のため人のために役立つことをなすことが人間として最高の行為である」という私の人生観、それが大きく決断に作用しました。

 しかし高齢であるため、当初は、フルに勤務することはできないと思い、政府の方にも企業再生支援機構の方にも、「週に三日ほどの勤務ならできるでしょう」、そのように申し上げました。京都に自宅があり、家内もそこに住んでおりますことから、引き受けるとなればホテル住まいになってしまします。そのことも理由になって、「週に三日くらいなら勤務できるだろう」と申し上げたわけであります。同時に「週に三日の勤務ですから、給料はいりません。無給でやらせてもらいます」、そのように申し上げ、日本航空の会長職を引き受けさせてもらいました。

 お引き受けすると返事をしたものの、航空業界には全くの素人です。確かなものは何も持ちあわせておりません。新聞雑誌でも「誰がやっても日本航空の再建は難しいのに、メーカー出身の技術者であがりの経営者である稲盛が再建しようとしても、決してうまくいかないだろう」と冷ややかに言われておりました。

 それでは、私が引き受けましたのは、日本航空の再建には利他の心に基づく三つの意義があると考えたからです。

 一つは、日本経済への影響です。日本航空は日本を代表する企業であるだけでなく、伸び悩む日本経済を象徴する企業にもなっておりました。その日本航空が二次破綻でもすれば、日本経済に多大な悪い影響を与えるだけではありません。日本国民までも自信を失ってしまいかねません。しかし、再建を成功させることができれば、あの日本航空でさえ再建できたのだから、日本経済が再生できないはずがないと、国民が勇気を奮い起こしてくれるのではないかと思ったのが、第一の意義であります。

 二つ目は、残念ながら多くの社員に辞めてもらわなくてはなりませんが、しかし、日本航空には多くの社員が残ります。三万二千名にのぼる社員が残るわけでありますが、その社員の雇用を何としても守ってあげなければならない。彼らが職を失ってしまったのではかわいそうだ。そのように思ったのが第二の理由です。

 三つ目は、国民のため、すなわち飛行機を利用する人たちの便宜を図るためです。もし、日本航空が破綻すれば、日本の大手航空会社は一社だけになってしまいます。それでは競争原理が働かなくなり、運賃は高止まりをし、サービスも悪化してしまうでしょう。これは決して国民のためになりません。健全で公正な競争条件のもと、複数の航空会社が切磋琢磨(せっさたくま)していく。それでこそ、利用者に、より安価でよりよいサービスが提供できるはずです。そのためには、日本航空の存在が必要だと考えたのです。

 日本航空の再建には、このような利他の心に基づいた三つの大きな意義、つまり「大義」があると考え、いわば義侠心(ぎきょうしん)のような思いから、私は日本航空の会長に就任し、再建に全力を尽くす決意をしました。

 私は会長に就任後、この三つの大義を日本航空の社員たちにも理解してもらうように努めました。社員たちもそのことを通じで、日本航空の再建は、単に自分たちのためだけのものではなく、立派な大義があるのだ、世のため人のためにもなるのだと理解してくれ、努力を惜しまず再建に協力してくれるようになってまいりました。

 高齢であるにもかかわらず、誰もが困難と考えていた日本航空の再建を無報酬で引き受け、命を懸けて頑張っている私の姿を見た社員たちが感激してくれたということも、幸いしたのかもしれません。先にお話をしましたように、当初は週三日くらいの出勤と考えておりましたが、日本航空の本社に詰める日が週に三日から四日、四日から五日と次第に増えていきました。八十歳を前にして、週のほとんどを東京のホテル住まいで過ごし、時には夜の食事がコンビニのおにぎり二個になるという日もしばしばという生活を送るようになっていきました。

 そのような姿勢で懸命に命を懸けて再建に取り組んでいる私を見て、労働組合を含めて多くの社員が「本来なら何の関係もない稲盛さんが、あそこまで我々の会社のために頑張ってくれている。我々は自分の会社のことなのだから、それ以上に全力を尽くさなければならない」と思ってくれたようです。

☆日本航空の業績が劇的に改善したプロセス

 私は会長に就任してすぐに、「新生日本航空の経営の目的は、全社員の物心両面の幸福を追求することにある」と全社員に宣言し、これを繰り返し訴えていきました。

 つまり、「日本航空という企業は、今後は株主のためではなく、ましてや経営者自身の私利私欲のためではなく、そこに集う全社員が幸福になるために存在するのだ」という私の確固たる信念を、社員に伝え、この私の信念、経営哲学を申請日本航空の経営理念の冒頭に謳(うた)いました。つまり、会社経営の目的は、全従業員の物心両面の幸福を追求すること一点に絞ると、宣言しました。

 会社の経営の目的を説くことによって、日本航空の社員たちは「日本航空は自分たちの会社だ」と考えるようになり、再建に向けた強い意志をともに共有するようになってくれました。そして、その結果として、自分たちの会社の再建のために、また仲間のために尽くそうという心をベースに、経営幹部から一社員に至るまで自己犠牲を厭(いと)わない姿勢で臨んでくれるようになっていきました。

 その上で、私は自分の人生哲学、経営哲学である「京セラフィロソフィ」という考え方を、日本航空の幹部や社員たちに説いていきました。

 つまり、日本航空再建の大義を果たし、全社員の物心両面の幸福を実現していくのには、こういう考え方、こういう価値観、このような判断基準で仕事に向かい、経営にあたらなければならないということを訴え、その考え方、価値観、判断基準を全社員に共有してもらうように努めていきました。

 「京セラフィロソフィ」とは、具体的には、「常に謙虚に素直な心で」「常に明るく前向きに」「真面目に一生懸命仕事に打ち込む」「地味な努力を積み重ねる」「感謝の気持ちを持ち続ける」などといった、人間としてあるべき姿、人間としてなすべき「善きこと」についてまとめたものです。私はこの一つひとつを日本航空の社員たちに紐解いていきながら、社員の一人ひとりが人間として「善きこと」の実践に、それぞれの持ち場、立場で懸命に努めてくれるようお願いしていきました。

 やがて、今までマニュアル主義だと言われていた、日本航空のサービスが目に見えて改善していきました。全社員がお客様のことを第一に考え、心のこもったサービスを自発的に提供できるようになり、それとともに業績も向上していくようになりました。

 航空運輸業は、飛行機をはじめとする機材や、多くの整備工場を必要とする巨大な装置産業だと思われがちですが、実際にはお客様に喜んで搭乗していただくことが何よりも大切な、「究極のサービス産業」だと私は思い始めました。

 空港のカウンターで受付業務をしている社員が、お客様にどういう対応をするのか。また飛行機に搭乗し、お客様のお世話をするキャビン・アテンダントがどういう接遇をするのか。飛行機を操縦し、安全な運航をする機長・副操縦士がどういう機内アナウンスをするのか。さらには飛行機のメンテナンスに従事する整備の人たち、また手荷物等をハンドリングするグランドハンドリングの人たちが、どういう心のこもった仕事をするのか。

 このような現場の社員たちとお客様との接点こそ、航空運輸業で最も大切なことであり、そのことを通じて、お客様から「もう一度乗ってみたい」と思っていただくような会社にしなければ、お客様が増えるはずはなく、業績も向上していかないはずだと、そのように思いました。

 ですから私は、お客様と接する社員一人ひとりがどういう考え方を持ち、どのような気持ちで仕事をしなければならないのかということについても、直接現場で社員に語りかけてまいりました。社員一人に語りかけていきました。

 このようにして私は、考え方というものを社員たちに浸透させていったのですが、社員たちの間にこの考え方が浸透するに従って、日本航空の業績は劇的なまでに改善していくようになってまいりました。

☆「善きこと」と思い「善きこと」を実行する

 日本航空は再建初年度に千八百億円、二年目には二千億円を超える過去最高の営業利益を達成いたしました。世界の航空会社の中で最高の収益をあげたどころか、これは全世界の航空会社の利益合計の約半分に相当する金額でした。

 そして、昨年9月には、東京証券取引所に再上場を果たし、企業再生支援機構から出資をしていただいていた三千五百億円だけではなく、それに三千億円をプラスして六千五百億円を国にお返しをいたしました。本年三月で終了した再建三年目も、日本航空は好業績を維持し続けており、やはり千九百億円を超えるような営業利益をあげることができております。

 再建を成し遂げ、その任を終えた私は、本年の三月で日本航空の取締役は退任しました。これまで三年にわたる日々を振り返り、なぜこのような奇跡的な再生を果たすことができたのだろうかと、夜、床につく時にしみじみと考えてきました。

 私は、日本航空に定着していた官僚主義を打破するために、責任体制を明確にするように組織改革に努めました。また採算意識の向上を図るために、管理会計の仕組みも構築しました。そうした様々な改革が、再建に大きく寄与したことは確かです。

 しかし、日本航空が劇的な再建を果たした真の要因は、「善きこと」をなそうという純粋な私の心にあったからではないだろうかと、昨今思えるようになってきました。

 先に述べましたように、日本経済の再興のため、残った日本航空の社員たちの雇用を守るために、さらには日本国民のために、私は老骨にむち打って、無報酬で日本航空の再建に命を懸けて取り組んできました。社員たちも、同じ思いになってくれ、再建に向けて懸命に取り組んでくれました。

 そのような「利他の心」。他を利する、優しい思いやりの心だけで懸命な努力を続けている私を見て、神様、あるいは天が哀(あわ)れに思い、手を差し伸べてくれたのではないだろうか。先ほど言いました因果の法則ではありませんが、宇宙の愛が我々を助けてくれたのではないだろうか。私はそのように思えてなりません。

 そうした「神のご加護」なくしては、あのような奇跡的な回復などできるはずはないと思います。今、世間では、日本航空の再建を果たした私を賞賛してくださっていますが、決してそうではありません。サンスクリットというインドの古い言葉の中に、このような格言があります。

「偉大な人物の行動の成功は、その行動の手段によるよりは、その心の純粋さによる」

 この格言が教えるように、私の日本航空再建というその行動の成功は、いわゆる管理会計システムを導入したといった、行動の手段によるよりも、それを実行したその人の心の純粋さによる。私自身の心と純粋な行為を天が憐(あわれ)み、手助けをしてくださった。この三年にわたる再建の日々を振り返り、私はそう強く思っております。

 最近では「自分の力ではなかった。神様、いや宇宙が、私の善き思いに対して、応えてくれたのだ」と思って、手を合わせて、宇宙、また神様に感謝をして床につく毎日です。

 まさに、今日皆さんにお話ししてきたこと、その通りであります。善きことを思い、善きことを実行すれば、運命はよき方向へと変わっていきます。この日本航空の再建はそのことを証明する格好の事例ではないかと思います。

☆人生の目的は魂を磨くこと

 皆さんの人生も同じであります。自分の力だけではなく、神と言うべきなのでしょうか、自然と言うべきなのでしょうか、それとも宇宙と言った方がよいでしょうか、人智(じんち)を超えた偉大な力が支援してくれるような人生を送っていくことが大切です。美しい善き心、つまり利他の心で毎日を生きるということが、人智を超えた偉大な力が応援してくれるもとです。

 これは決して難しいことではありません、すべては、自らの心次第なのです、今日お話をしました

『陰騭録(いんしつろく)』に書かれております真了凡さんのように、できるだけ善きことを思い、小さいことでもいいから善きことを実行していく。そして自分の心を少しでも純粋な美しい心に変えていくようにすれば、自然を味方につけ、自分自身の人生を素晴らしいものへと好転させていくこともできるはずです。

 八十年あまりにわたる人生の中で、私はそうした経験を幾多もしてまいりました。それだけに、自分自身の心を純粋にし、美しいものへと変えていくことが、素晴らしい結果を導くとともに、それが人生の目的そのものなのだということを、今思うようになってきました。

 私たちは、自分の意志によってこの世に生を受けたわけではありません。物心がつき、気がついてみればこの世で両親の下に生まれておりました。そして自分の意思とは無関係に人生を生き、運命を因果の法則が織りなす人生の布を伝いながら、今日まで生きてきています。

 その間、災難にも遭いました。幸運にも恵まれました。それらの試練に出遭いながら自分自身の魂を磨き、美しい心、美しい魂をつくりあげていく。そのことが、私たちに与えられて人生の目的ではないかと思うのです。

 心を磨くとは、魂を磨くことです。言葉を言い換えれば、人格を高めるということです。人間性を豊かにし、美しい人間性をつくっていくということです。

 人間は本来、真善美を求めると言われています。「真」とは正しいことであり、「善」とは善きことであり、「美」とは美しいものです。人間はこれら三つのものを探求する心を持っています。それは、人間そのもの自体が真善美という言葉で表現できる美しい真我、魂を持っているからではなかろうかと私は思っております。

 だとすれば、私たち人間が本来持っている、愛と誠と調和に満ちた美しい心をつくっていくことこそ、私たちがこの人生を生きていくための目的ではないかと思うのです。愛と誠と調和に満ちた美しい心をつくっていくことが、自分の人生をさらに豊かにしていくのだと思うのです。

 仏教的な思想では、魂は輪廻転生(りんねてんしょう)していくと考えられています。この考え方に従えば、稲盛和夫という肉体を借りてこの現世に姿をあらわした私の魂は、肉体が滅びた時に新しい旅立ちを迎えます。やがてまた私の魂は、肉体を借りてこの現世へと転生することになるのでしょう。

 そういうふうに考えれば、私たちが生きた七十年、八十年という時間は、輪廻転生をする魂を磨き上げるための期間なのかもしれません。生まれてきた時に持ってきた自分の魂を、この現世の荒波の中で洗い、磨き、少しでも美しいものへと変えていく、そのために人生というものがあるのではないかと、私は思っています。

 死にゆく時、生まれた時よりも少しでもましな美しい魂に、また優しい思いやりに満ちた美しい心をもった魂に変わっていなければ、この現世に生きた価値はありません。人生とは、魂を磨き、心を磨く道場なのではないかと思っております。

☆素晴らしい幸せな人生を送るために大切なこと

 しかし、そのように考えて心を磨こうと思っても、実際にはなかなかうまくいかないのが人間です。

善き思いを抱こうと思っても、「儲かるかどうか」「自分にとって都合がいいか悪いか」といったくだらない思いで、ついつい行動してしまうのが人間というものです。

 そうした悪しき思いが出てきた時には、その思いをモグラ叩きのようにして叩き、抑えていくことが重要になります。そのようにして、日々反省していくことが、心を磨くためには不可欠なことだと私は思っております。

 修行をして、素晴らしい悟りを開いたような人になることができればいいのですが、我々凡人が厳しい修行を積み、立派な人格者になることは難しいことです。しかし、人格を高めていこう、自分の心、魂を立派なものにしていこうと繰り返し繰り返し努力をしていく、その行為そのものが尊いのではないかと、私は思っています。

 つまり、いつも自分の心の中に、善い思い、優しい美しい思いが出てくるように、もし邪(よこしま)なものが出てきた時には、「こらっ」と言って自分で怒って、それを抑えていく。それは、毎日毎日あたかも賽の河原(さいのかわら)の石を積むようなものかもしれません。高く積めないかもしれませんが、毎日そういう努力をしていくのが尊いのではないかと思っています。

 皆さんも、ぜひ人生という道場の中で、善きことを思い、善きことを行うように努めていただきたいと思います。そのことによって、皆さんの魂、心は磨かれていきますし、そうして磨き上げられた美しい心で描いた思いは、自分の人生を必ず素晴らしいものへと変えていくはずです。

 繰り返し申し上げます。この自然というものは、すべての皆さんが素晴らしい人生を生きていけるようにつくられております。本来、この世の中に不幸な人などいないはずです。いてはならないはずです。そういうふうに自然はつくられているはずです。

 我々がどういう心構えで、そういう考え方で人生を生きていけばよいのかということを、自然は我々に教えてくれています。自然が意地悪をして、我々の人生を曲げているのではありません。我々の人生は、我々の心のままになるようにつくられています。

 今日は皆さんと一期一会(いちごいちえ)でお目にかかりました。また遠いところからも、たくさんの方に集まっていただきました。皆さんの人生が今後どうぞ素晴らしい人生でありますように祈っておりますし、また皆さんがこの現世から離れられる時に、たとえ恵まれた人生ではなかったとしても、「自分の人生はよかった。魂を磨くことができた素晴らしい人生であった」と思えるような生き方をしていただきたいと思っております。

 私自身が仕事を通じて、この『陰騭録』に出合い、自分の心のあり方によって、、人生は地獄にも極楽にも変わっていくことに気がつき、そして自分の心にできるだけ善き思いを描き、善き思いを実行していくことに努めてきた結果、先ほども言いましたような、素晴らしい事業の展開をできましたし、私も本当に幸せな人生を送っています。今度81歳になりましたが、本当に毎日毎日、こんなに幸せであってよいのだろうか、と思うような日々であります。

 もちろん決して、立派なおいしい料理を食べているわけではありません。普通のサンマを食べたり、普通の生活をしています。先ほどもいいましたように、おにぎりがあれば十分命長らえていけます。

 ですが心の中では、本当に素晴らしい人生であったと。苦労もしました。大変厳しい人生を必死で生きてきましたが、しかしそれにしても、何と素晴らしい人生であったことかと。こんな幸福な人生はなかったと。心から思っておりまして、神様に感謝御礼を捧げている毎日であります。

 どうぞ今日一期一会でお目にかかりました皆さんの人生が、今日を境にさらに素晴らしい人生に変わっていきますことをお祈り申し上げまして、これで終わらせていただきます。

 本当にありがとうございました。

(2013年10月29日「盛和塾大阪市民フォーラム」での講演)

 

経営に悩みに悩んでいた若い頃、『立命の書「陰騭録(いんしつろく)を読む』に出合ったことで、

「善きことを思い、善きことを実行する人生を送っていこう」と強く思うようになりました。

 

どのような災難に遭おうとも、それは試練として神が私に与えてくれたものだと受け止め、前向きに、ひたすら明るく努力を続けていく

 

人格を高めていこう、自分の心、魂を立派なものにしていこうと、繰り返し繰り返し努力をしていく、その行為そのものが尊い。人生とは、魂を磨き、心を磨く道場です。

ユーチューブ動画のご案内

2023年1月15日(日)録画  1時間17分08秒

稲盛 和夫 特別講話「人は何のためにいきるのか」(2013年10月29日 大阪国際会議場)

ホームページ:http://www.inokyuu1125.jp/16737468253831

 

ユーチューブ動画:https://youtu.be/rSMgxek0AO4

お気軽にお問合せください

お電話でのお問合せ・相談予約

090-6483-3612

フォームでのお問合せ・相談予約は24時間受け付けております。お気軽にご連絡ください。

新着情報・お知らせ

2021/02/19
ホームページを公開しました
2021/02/18
「サービスのご案内」ページを更新しました
2021/02/17
「事務所概要」ページを作成しました

井上久社会保険労務士・行政書士事務所

住所

〒168-0072
東京都杉並区高井戸東2-23-8

アクセス

京王井の頭線高井戸駅から徒歩6分 
駐車場:近くにコインパーキングあり

受付時間

9:00~17:00

定休日

土曜・日曜・祝日